20080131

彼らの思惑


 なんて欲深いんだろう。
 憧れて憧れて、喉から手が出るほどほしかったものが、手の届く場所にある。
 なのに、それでは満足できなくて。
 帰りたくない。
 一人になりたくない。
 離れたくない。
 ずっと一緒にいたい。



「遅くなりましたー」
 ばたんとドアが開いて、風の流れが起きると、ふわりと甘い匂いが事務所の中に広まった。
 ドアを開けた少女は、事務所の中をきょろりと見回して、目当ての人物らがいないことを確認すると、ひとつ息を吐いた。
「なぁんだ、ぼーさんたち、今日は来てないんだ?」
「ぼくだけじゃあ、不満ですか?」
 にっこりとほほ笑む青年に、少女はいやいやいや! と、顔の前でぶんぶんと手を振ってみせる。
「これ、学校の実習で作ったんです。結構おいしくできたんで、みんなで食べたいなぁと思って」
 かさりと音を立てたそれは、どうやら甘い匂いの原因らしかった。安原はなるほどという具合にぽんと手を鳴らすと、奥のドアへと視線を向けた。
「うちの所長様は確か・・・」
 言われて、麻衣は心得てますとばかりにこくんと頷く。
「甘いものは、食べないですよねぇあの人。いちおう、声はかけてみようと思うんですけど・・・」
 とりあえず、みんなが来るのを待ってみます。
 麻衣はそう言うと、膨らんだ袋をひとつ撫でた。
「実は、私・・・」



 もちろん、イレギュラーズも毎日事務所に顔を出しているわけではない。
 けれども、4人いるイレギュラーズが、誰ひとりとして事務所に顔を出さない日は、あまりない。特に、スタジオミュージシャンの破壊僧は、休みだとか仕事の合間だとか移動の途中だとかかこつけて、よく顔をだす。
「こんな日に限って、だーれも来ないんだもんなー」
 デスクで頬杖をつきながら、麻衣がぼやいた。
 イレギュラーズはもちろんのこと、お客さんも来ない。麻衣が学校を終えて事務所に着いたのがだいたい3時過ぎで、今は5時になったところだ。
 事務所の掃除を一通り終わらせ、書類整理も終わった。そもそも今日は安原が早くから事務所に顔を出していたようで、麻衣の仕事ははじめから多くはなかったというのもある。
 人を待っている時というのは、時間がやけに長く感じるものだ。そのうえ今はやることも特になく、時間の進み方は麻衣にとって亀の歩みのようだった。
 と、所長室のドアが不意に開いた。
「麻衣、お茶」
 所長様からお茶を催促されるのは、本日二回目であった。
「はーい」
 そのまま資料室へと入っていた後ろ姿に返事をし、麻衣はよしっと立ち上がった。
「安原さんは何が飲みたいですか? もしよろしければ、アップルパイに合いそうなものをお淹れいたしますけれども」
「あれ、食べちゃうんですか?」
 まだ誰も来ていないのに?
 安原の問いかけに、麻衣は首を傾げる。
「もう五時ですし、今日は来ないんじゃないかなって思って。それに、今食べなくちゃ、晩御飯が食べられなくなっちゃうし。安原さん、食べてくれますか?」
「もちろん、喜んで頂戴します。僕ってば、役得だなぁ」
 ガチャ。
 と、今度は資料室のドアが開いた。出てきたのは、巫蠱道士その人である。手元のファイルを捲りながらの登場だ。
「・・・はい、すぐに確認します」
 その言葉を最後に、リンは資料から顔をあげた。その視線はまっすぐに安原へと向かっており、すぐに安原はぴんと来たようだった。
「なんでしょうか?」
「Y市まで行って調べごとをお願いできますか」
 その声はリンではなく、彼の後ろから発せられた。
「え、今から?!」
 だって、もう5時だよ?
 驚きの声を上げた麻衣に、リンの後ろから現れた天下の所長様は冷たい一瞥を投げて寄こした。
「先日の調査の件で、新しい事実が確認できた。それの裏付けが欲しい」
「なにも、今日じゃなくたって」
「急いでいる。今日中に、だ。僕はここで資料をまとめなければならないし、もし安原さんに用事があるようなら、リンが行く。ただ、リンにはY市で別の調査もしてもらうから、安原さんが行けるようなら助かるんだが」
「・・・・・・」
 ここ道玄坂から、Y市までは車で一時間ほどで着く。そこで調べ物となれば、今日は安原が事務所に戻らないだろうことが、麻衣にも容易に想像がついた。
 安原は一度麻衣を見た。麻衣はその安原の顔を見て、しょうがないですよねとひとつ頷いた。
「僕は大丈夫です。今から向かいます」
 リンの手には、すでに車のカギも握られていた。本当に急いでいるようで、すぐにでも出かける雰囲気である。


「麻衣、お茶は」
 ばたばたと出て行った二人を見送り、麻衣がぼーっとブルーグレイのドアを眺めていると、不意に背後から声がかかった。
「あ、忘れてた。今淹れるね」

 麻衣がお茶を淹れて給湯室から戻ると、ナルは珍しく、所長室ではなく応接セットのソファに腰を掛けていた。
「忙しいんじゃなかったの」
「僕はあなたのように、必ずしも体が休んでいるなら頭も休んでいるというわけではありませんので」
「不器用で悪かったわねー」
 ふんっと鼻を鳴らすと、麻衣はナルの前に紅茶を置いた。
 お盆には自分に淹れた紅茶も乗っている。一瞬応接セットに腰を下ろそうか迷ったが、デスクで飲もうと踵を返したところ、テノールの声がそれを止めた。
「安原さんと、でかける約束でも?」
「え?」
 質問の意をつかみかね、麻衣は動きを止める。
「ずいぶんと、安原さんが出かけるのを嫌がっていたようだったから」
 麻衣は、ナルの顔を見つめた。
 持ち上げたカップに視線を落とし、三重瞼はうつむき加減だ。
 この人は、このことを聞くためにソファに腰かけたのだろうか?
「アップルパイを、食べてもらう約束をしてたから」
 三重瞼が、麻衣を捉える。
「今日、学校の実習で、アップルパイを焼いたの。おいしくできたから、みんなに食べてもらいたくて持ってきたんだ。けど、今日に限って誰も来ないんだもん」
「それだけか」
「・・・うん、それだけ」
 麻衣は、お盆を抱えていた両掌を、きゅっと握った。
 学校の実習で焼いたアップルパイ。誰かに食べてもらうために、少し多めに作って、持って帰るという行為。
 学校を出た後も、誰かとの関係が続くという幸せ。
 母を亡くした麻衣にとって、久しぶりの、感覚。
 麻衣がうつむいていると、ナルが立ち上がった。見ると、カップの中身は空である。
 所長室に戻るのかと思えば、ナルが向かったのは、給湯室の方だった。
「ナル・・・?」
 あわてて追いかけると、給湯室のナルは、アップルパイにフォークを刺したところであった。
「ナル、食べるの?」
 アップルパイだよ、甘いよ?
「麻衣、お茶」
 一口分欠けたアップルパイを自ら皿に載せ、ナルはソファへと引き返した。麻衣は呆然として、けれどもはっと我にかえって。
「今、今すぐ持ってく、待ってて!」







 ガチャ。
 ブルーグレイの扉が開き、ぞろぞろと人が入ってきた。
「よ! 娘っ」
「いい匂いじゃないの」
「楽しみですわね」
「麻衣さん、お久しゅう、です」
 イレギュラーメンバーズは、イレギュラーでありながらも、勝手知ったるなんとやら、なじんだソファの定位置へと腰を下ろす。
「どうしたのみんな? こんな時間に」
 時計を見ると、6時を回っている。依頼もなにもない日のこんな時間に、全員がぞろぞろと集まるのは、偶然とは思えなかった。
「麻衣がおいしいアップルパイを焼いたって聞いたから、食べに来たんじゃないの」
 さぁ、おいしい紅茶とアップルパイを頂戴!
 綾子が赤い口紅をきゅっと上げる。
「少年が、食べなきゃもったいない絶品があるからって」
 にこにこと、滝川が続ける。
「安原さんが・・・?」
「ぼくへも、連絡をいただきましたよって」
「わたくしも、世界のパティシエが認めたと伺いましたけれど?」
「ちょっと、世界のパティシエってなにさっ!」
 事務所が笑いに包まれる。
 今頃、所長室の彼はしかめつらをしているに違いない。
 それでなくても・・・
「あ、そうだ、肝心のアップルパイなんだけど、もうないんだ、ごめん」
「「「「え?」」」」
「さっき、ナルと二人で、全部食べちゃった」
 はははと、麻衣が困ったように笑った。




 所長室のドアは、防音ではない。
 今だって、イレギュラーたちの声が、所長室のナルの耳にまで届いている。

 麻衣と安原の会話も、もちろん届いていた。

『実は、私、実習でお菓子を持って帰るの、夢だったんです』
『夢、ですか?』
『持って帰って、食べてもらえる人がいるって、ちょっとした憧れで』

 




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