20080131

ちょっとした


「熱、ありますよね?」
 そう言うと麻衣は心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
 彼女はまだ上着を着たままだった。
 いつものようにブルーグレイのドアをくぐった先に、壁にもたれかかってむせ込んでいるリンを見つけ、そのまま駆けよったためである。
 しばらく彼の背中をさすり、少し治まったのでようやく声をかけたのだった。
「大丈夫、です・・・」
「そんな声で言われても」
 いつもと変わらない無表情から発せられたのは、風邪という二文字がにじみでるようなかすれ声である。
「薬とか飲みました? なんでもいいのであれば、風邪薬持ってます」
 すぐにごそごそと鞄をあさり始めた麻衣を、リンは手を差し出すことで制した。
「大丈夫です、すぐに、良く、なりますから」
 喋らせることにすら罪悪感を感じるその声に、麻衣は眉をひそめる。さらに、リンは言いながらも咳をこらえている様子だ。なにが大丈夫なものか。
「ナルは?」
 こんな状態の部下に仕事をさせているのだろうかと語気も強めに尋ねると、目の前にリンの指が伸びた。麻衣はその先に視線を転じる。
 そこにはカレンダーが下がっていた。
 主に麻衣と安原が記入するそれは、簡単な事務所の予定表になっていた。ここ2週間ずっと線が引いてあり、その上には「谷山・期末試験」と書かれている。そのまま線の終わりまで辿ると、本日の日付になる。
「あ、イギリスからお客様が見えてるんでしたっけ」
 麻衣は、きゅっと眉を寄せた。
 一か月以上前から決まっていた、パトロンの訪日である。そうなるとナルはもちろん外出するわけで、事務所を開けるためにはリンが休むわけにいかない。
 しかし、ナルはリンのこの状態を知っているのだろうか。
「ナルは知っています。自己管理もまともにできないのかと言われましたよ」
 麻衣の表情から心理を読み取ったと言わんばかりに、リンは苦笑した。
「ナルってば・・・!」
 あまりにもナルらしいセリフだと麻衣は思った。間違ったことではないのだろうけれど、病人にかける言葉でもないと麻衣は思うのである。
 そもそも、一日くらい事務所を休業したところで、困るような営業はしていないはずだ。
「留守番くらいなら私一人で充分ですし、今日はもう帰ってゆっくり休んでください」
 今の状態のリンがいたところで、十分な判断ができるとは思えない。麻衣は半ば押し出すようにリンをドアまで促し、カバンも忘れずに掴ませ、ドアを開けた。
 さっと涼しい空気が事務所を通る。ようやく春を迎えようとしている季節で、まだ暖かいとは言い難い気温だった。
「寄り道しないで帰ってくださいね! 栄養のあるもの食べて、しっかり休んで、明日は元気になって事務所にきて下さい。ナルには、追い返しておいたって言っておきますから!」
 リンが見えなくなるまでしっかり見送り、見えなくなってからもしばらく見張り、リンが帰路についたであろうことを確信すると、ようやく事務所の中へと戻る。
「さて・・・」
 これからどうしようかなと、麻衣はボスも上司もいない事務所をぐるりと見渡す。2週間ぶりの出勤だった。
 机の位置、観葉植物の葉の具合、ファイルの背表紙、応接セット。2週間前と一分も違わない光景だった。ここは誰でもない、ナルが所長を務める事務所なのだと、再確認させられるようだった。
 麻衣は上着をかけると、自分にあてがわれた机に目を向ける。特に何も乗っていない。仕事を告げるメモも見当たらない。安原という優秀なアルバイトもいるこの事務所は、麻衣が2週間休みをもらったところで、困るほど仕事が溜まることはないのである。
 おそらくリンがいたならば、やることの一つや二つや三つや四つ、指示をもらえていたに違いない。しかし、今はそのリンもいない。誰でもない麻衣が帰した。
 一通り事務所を眺め終えると、今度は流しに足を向けた。ぱたんぱたんと流しの扉を開け、中を確認していく。試験休みが始まる前にしっかり蓄えておいたせいもあるだろうが、どうやらあまりいじられていないようで、茶葉の補充は必要なさそうである。
 いつものようにお茶を淹れようと手を伸ばしかけ、「せっかく手間をかけてお茶を淹れたところで自分以外に誰もお茶を飲んでくれない今の状況」を思い出して手を止めた。
 お茶を淹れるという行為は、この事務所の中で、この場所に立った麻衣にとって、あまりにも自然なものだった。もともと英国人であるナルは一日に何度もお茶を欲しがったし、麻衣がその場にいれば、まずほとんど彼女が給仕役になる。となると、お茶を淹れる行為が麻衣にとって習慣化するのは当然だ。
 事務所に麻衣が一人でいる、ということはあまりなかった。
 つねにナルか、リンか、はたまた安原かイレギュラーズがいた。
「・・・いっか」
 一人でお茶を飲む気にはなれず、麻衣はそのまま踵を返そうとしたが、そういえばと上を見上げた。
 今では、流しはすっかり麻衣の管理下にあった。ただし、麻衣が普段見ない場所もひとつあった。流しの上の戸棚である。そこには予備の雑巾をはじめとした、使用頻度の低いものが雑然と入れられている。
「やっぱり」
 ティーバックの箱が、そこでぱっくりと口をあけている。残りは片手で数えるほどだった。
 ここの事務所でアルバイトを始めたころ、お茶を求めらる回数に辟易し、自分で買ってきたティーバックでばしゃばしゃとお茶を作ったことがあった。その時に所長様から返された言葉は散々なもので、今も麻衣はその出来事を忘れていない。本場英国でも今の時代はティーバックが愛用されていると聞いたが、彼はティーバックで淹れたお茶を好まないようだった。
 麻衣が買ってきて、散々に罵倒されてそれ以来その存在を忘れられていたはずのティーバックが、残り僅かということはつまり。
 麻衣が休んでいた2週間で、誰かがティーバックでお茶を淹れて飲んでいたことを指していた。
 安原ではない。
 彼も、ナルがティーバックを好まないことをよく知っている。ナルに頼まれたのならば茶葉から淹れるだろう。彼はナルの性格をよく理解していたし、お茶を淹れる手間を厭ったりはしない。
 リンは、可能性としてあり得る。
 リンはお茶に対して頓着がない。淹れたものは基本的に何でも口にした。ただ、リンは自分からお茶が飲みたいということがなく、麻衣はリンがお茶を淹れるところが想像できなかった。
 想像できないという点では、ナルもそれに当てはまる。
 しかし、ナルがお茶を飲まずにいる姿も、同じように想像できなかった。
 茶葉が減っていなかった。ティーバックは減っていた。
「ナルだな・・・」
 安原さんがいれば安原さんに淹れるように頼むだろうけれど、彼は大学生であり、四六時中事務所にいるわけではもちろんない。
 ちらりと腕時計を見れば、午後二時を回ったところだった。


「絶対に来ると思ってた!」
 満面の笑みで迎えられ、真砂子は袂を口元に寄せる。
「お邪魔だったかしら」
「もー、ほんとに素直じゃないんだから」
 座って座ってと、麻衣は真砂子にソファを勧め、自分は流しへと姿を消した。少し待つと、香しい玉露が注がれていると思われる湯呑をお盆に二つ乗せて、麻衣が現れた。
 真砂子の前にひとつと、その正面にひとつ湯呑を置くと、麻衣はソファに腰を下ろす。
「ふたつ、ですの?」
 言外に気づき、麻衣は頷く。
「ナルは、イギリスから来たパトロンに会ってるみたい。リンさんは、風邪みたいだったから帰しちゃった」
 ふうっと息を吹きかけながら、麻衣が答える。
 普段、ナルは所長室に、リンは資料室にこもりがちで、イレギュラーが訪問したところで顔を出すような人たちではなかった。ただし、麻衣はイレギュラーズにお茶を淹れるとき、必ず彼らにもお茶を淹れていた。ふたつしかない湯呑はつまり、彼らが不在であることを意味するのである。
「真砂子は? 試験は?」
「わたくしのところは、昨日で終わりましたの」
「そっかぁ、お互いにお疲れ様だね、試験って終わるとほんっともう、うれしくて!」
「追試っていう言葉をご存じ?無事に進学できましたらね」
「ちょっと、不安になるようなこと、言わないでよー」
 唇を尖らせ抗議する麻衣に、真砂子は優雅に微笑み返した。
「ところで麻衣」
「んー?」
「他のみなさんはもう、お帰りになってしまったのかしら?」
 左手を湯呑の下に、右手は添えるというきれいな構えで、真砂子はこくりとお茶を含む。
「うん、もう帰っちゃった。なんでわかったの?」
「入ってすぐに、コーヒーの香りがしましたの」
「なるほどー。ぼーさんと綾子は一緒に来たんだけどね、ごくごくのんでさっさと帰っちゃったんだ」
 せっかく気合いを入れて用意してたのになぁとぼやく麻衣を、真砂子はぼんやりと見つめた。
「いつも、私が長期で休暇をとると、みんな休み明けに来てくれるでしょ?」
 うれしそうに、少し照れながら麻衣は言葉を続ける。
「これと言ってやることもなかったし、いつもより丁寧に時間かけて用意したんだよ?」
 この玉露も上出来、と一人満足げにうなずく。
 イレギュラーズも含め、この事務所のメンバーは、いわゆるスペシャリストの集まりだ。第六感の女ではあるが、その能力は半人前の麻衣にとって、お茶を淹れる、という行為が―――ヒトから見たらちょっとした行為にすぎなくとも、スペシャリティーなのだ。
 今日流しに立って、ティーバックを見て、それを実感したのである。
(・・・みんなが自分の淹れるお茶を楽しみにしているって思うのは、奢りかな?)
「それでは、わたくしもそろそろおいとまいたしますわ」
 え、と驚いて顔を上げた麻衣には構わず、真砂子は底の見えた湯呑を静かにテーブルに置き、腰を上げた。
 あまりにも唐突に帰ろうとした真砂子の袖をつかみ、麻衣は困った顔を作った。
「このあと何か用事があった?」
 それとも、自分がぼんやりしたからだろうか?
 不安も入り混じった麻衣の顔を見て、真砂子はつんとそっぽを向いた。
「お邪魔ですもの」
 わけがわからず混乱する麻衣をよそに、真砂子はドアへと踵を向ける。
「ちょっと、真砂子!」
「・・・麻衣の淹れるお茶が、やっぱり一番おいしいですわ」
 ドアに手をかけ、振り返るでもなくつぶやいた言葉を聞き逃さなかった麻衣は、もう一杯淹れるよ!と真砂子を引き留める。
「次は」
「うん?」
「次は、ナルに淹れて差し上げて」
「へ?」
 ぱたん、と閉じられたドアを見つめ、麻衣は眼を瞬いた。



「だって、わたくしが事務所に入ったとき、うれしそうにカップを見つめていたんですもの」
 そう言う真砂子は、少しすねた表情でケーキを口に運んでいる。普段テレビですました表情ばかりしている彼女の、こんな一面をもっといろいろな人に見てもらいたいと、滝川なんかは思うわけである。
「あたしも台所を覗いた時に、しっかり用意された紅茶セットを見たら、長居する気が失せちゃって」
 嫌がるぼーずを引っ張ってきたってわけ、と、綾子が滝川に水を向ける。
「ナルはナルで、麻衣の不在時はいつものに輪をかけて冷たかったしなぁ」
「後半の一週間なんて、僕にお茶を淹れさせませんでしたからねー」
 おいしい紅茶が飲みたいのか、それとも・・・?
「それにしても真砂子ちゃんや、よく帰ろうと思ったね?」
 俯き気味に見上げる表情は、恨めしそうにも、照れているようにも見える。
「そこまで、じゃ、ないですわ」
「あれでお互いに自覚がないようなんですから、面白いですよねぇ」
「ぜんっぜん、面白くない」
 道玄坂の一角にある喫茶店。綾子と滝川が事務所を出たところに安原がでくわし、そのまま共に入ったのである。
 しばらくして真砂子が前を通った。事務所に向かっているのだろうというのは三人に一致した見解で、それはしばらくして再び店の前を通った本人の口からも明らかになった。
「あとは、ジョンか」
 四人の視線が交差した。

 ―――それは、ちょっとした、楽しみ。




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