20130210

その責任 (3)


 その責任は、間違いなく俺にあった。



 一人暮らしはラクだ。
 ベッドに寝転んで見慣れた天井をぼんやりと眺めながら、よくそんなことを考える。
 とくに、昼夜の感覚がふつーに仕事をしているひととはずれている自分にとって、気を遣う相手がいないこの生活はとてもラクなのだ。
 好きな時間に起きて、好きな時間に寝る。好きにテレビを見て、好きなだけギターを弾く。誰に干渉されるでもなく、好きなことを好きなだけできる。
 同居しているネコがいる。だからとは言わないが、とくにさみしくもない。
 炊事や洗濯や掃除や、そんなことも、別に生きていける程度でいいと思っているし、それくらいなら自分でできるから不自由もしていない。
 一人暮らしにはメリットがたくさんある。
 しかし。
 病気の時ほど一人暮らしのデメリットを感じる時はない。
 怪我をして3日。一日目は熱もあってぼーっと寝ているうちに過ぎた。二日目はやはり熱があったけれど、それよりも空腹が勝った。しかしこんなときに限って部屋の中に食べるものはなく、買いに動くのはどう考えても苦痛だったため店屋物を頼んで食べた。ただし食べて寝て気づいたら一日が終わっていた。そして三日目。昼過ぎに起きて今だ。少しは良くなったものの、それでもまだ痛む背中と足を抱えて、俺はたかが水を飲むためにぎこちない動きでそろりそろりと時間をかけてベッドから冷蔵庫へと移動しているのだった。
 ちなみに突然外食が続いたり調査が入ったりと無駄にすることが多いから、食材はあまり買い置きしていないのだが、保存が利く水はある程度のストックがあった。しっかり買い置きしていた自分をほめたい。
「あ、こんな格好を誰かに見られないから、一人暮らしでよかったのかも」
 はたから見ると、自分は今非常に情けない格好で移動しているのだろう。
 いや、介助してもらえるのであれば―――
 なんてことを考えて、たらればの不毛さにひとり苦笑する。こんなこと、いくら考えたところで意味がないのだ。

 ようやく手にしたペットボトルに口をつけると、タイミング良く電話のベルが鳴った。電話の配置は冷蔵庫に比較的近い。今の状態で横になっている時に電話が鳴れば、かけてきた相手が気の長い人でなくてはベルが鳴っている間に受話器をとる自信がなかった。
「もしもし」
「ぼーず、調子はどう?」
 開口一番がそれだった。名乗りもしなかったが、もちろん誰かはすぐにわかった。綾子だ。
 綾子はどちらかと言えば気の短いタイプだが、相手の状況を知っていて短気をおこすタイプではないな、なんてことが頭をよぎる。
「まぁまぁかな」
「あ、そ。よかったわね」
 この短いやりとりで、俺ははてと首を捻る。ああ見えて心配性の綾子のことだから、体調伺いの電話をしてきたのかと思ったのだが、どうも雰囲気がおかしい。
「なにか御用ですかい」
 俺の問いかけに対し、電話口で綾子は少し黙った。どうやら言い出すのを渋っているようで、なんでもすぱすぱと口に出す綾子らしからぬ沈黙だった。
 そして、沈黙を破った綾子の言葉に、俺はさらに首を捻ることになる。
「ぼーず、あんた、麻衣になんてことしてくれたのよ」
「は?麻衣?」
 電話先の綾子からはほんの少しだが苛立ちが伝わってきていた。それでも、綾子の苛立ちに身に覚えがない俺は、これ以外の反応を返すことはできない。
「とぼけるんじゃないわよ」
「おい待てよ、何のことかさっぱりわかんねーよ、麻衣がどーかしたのか?」
 とにかく責められているということだけは分かったが、どうして責められているのかが分からない。
「身に覚えがないの?」
「身に覚え?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「そーいうことね。・・・少し長くなるわよ」
 一方的に責められて気分は良くなかったが、とにかく俺は言外を察し、ちょっと待てと電話機ごと抱えて床におろして床に座り込む。足も背中も痛むので、とても時間がかかったわけだが。

 俺の予想を裏切り、綾子の話は短かった。綾子の話より、綾子の話を聞いた俺の絶句の方がよっぽど長かった。

「―――俺が、麻衣を襲うわけがないだろ」
 たっぷりの沈黙ののちにようやく口をついて出た声は、自分自身が思った以上に低く発せられた。あまりにも綾子の話がありえなかったこと、そして内容そのものへの嫌悪とで。
「麻衣がウソをついてるって?」
「なんだ綾子。じゃあ、お前さんは俺が麻衣を襲ったって思ってるわけ? そもそも俺がいつ麻衣を・・・」
「あんたが麻衣を襲うとは思ってないわよ」
 あっさり返ってきた綾子の言葉に、俺はさらには?と返す。麻衣が俺に襲われたと言っている。麻衣がウソをついてるとは思っていない。けれど俺が麻衣を襲うとも思っていない・・・?
「ぼーず、あんた、一昨日の記憶ある?」
「一昨日? 調査の最終日?」
「そう。あんた、あたしと別れたあと、どうしてた?」
 綾子の言葉に、俺は一昨日の記憶を辿る。
「お前さんを降ろして、少年と麻衣に部屋まで送ってもらって、で、だるかったから着替えもそこそこにベッドで寝た・・・」
「寝て? それでおしまい? ずっと寝てたわけ?」
「あ? 何回か目が覚めた気もするけど、起き上がったのは次の日の昼頃だったかな。そんとき出前とってるし、・・・あぁ、間違いなく昼まで寝てた」
 綾子が一息置いたのが受話器から伝わった。
「麻衣が一人であんたのとこを訪ねたのは?」
「は?」
 今日、この短い時間の中で、何度この言葉で聞き返したか。
 とにかく、は?としか言葉が出ないのだ。
「麻衣が、ひとりであんたのとこに行ってんのよ。病院で処方された薬を渡し忘れたからって」
「・・・・・・」
「麻衣の話だと、訪ねてもあんたは出てこなくて、けど薬を渡さないわけにはいかなかったからってしばらくあんたが出てくるのを待ったらしいんだけど。・・・出てこないし、部屋に入ったんだって」
「鍵は?」
「そんなこと知らないわよ、掛かってなかったんじゃないの。どーせぼんやりしててあんたが掛け忘れたんでしょ」
 確かに、と思うのと同時に、体にひやりとしたものが流れた。あの日、熱っぽさとダルさとで、なんとなく朦朧としていた。これは、もしかして。
「で、麻衣は?」
「部屋に入って、ベッドに倒れ込んでいるあんたを見つけた。近づいて声をかけたら」
「声をかけたら―――?」
 まるで映画の緊迫したワンシーンを見ているような緊張感だった。早く結末を知りたいと思う反面、できるなら全部を放棄してこの先を知りたくないと思う自分がいることも否定できない。麻衣の話。俺自身の話。間違いなく悪い話。そして、俺がそれを全く覚えていないという事実。
「いきなりあんたに押し倒されたんだって」
「そんなわけあるか! 俺は怪我人だったんだぞ!」
 綾子が言い終わるか否かのタイミングだった。全力で否定せずにはいられなかったのだ。受話器を握りしめたせいで背中が痛み、俺は思わず顔をしかめる。
「・・・だから押し倒したものの痛がって呻いたあほぼーずを振り切って、部屋を飛び出したらしいわよ」
 綾子の口調からは、あきれた雰囲気がにじみ出ていた。
「・・・・・・」
「覚えてないのね」
 覚えていない。
「全く」
「電話の感じからして、そんなことだろーと思った。誰と勘違いしたのよ」
 最後は独り言のように小さく呟き、綾子はため息をついた。
 合点が行ったと、俺はやっぱり他人事のように思っていた。いや、他人事ではないのは分かっているのだが、なるほどそういうことならありえなくないと思ってしまっていた。
 俺が正気なら絶対に麻衣を襲うことはない。仏にも、なんだったら神にも誓ったっていい。ただ、朦朧とした意識の中、麻衣ではない「だれか」と勘違いしていたとなると。
「とにかく、すぐにでも電話して謝らないと」
 まずは謝罪だ、そう思ったら綾子との電話すら一秒でも早く切りたくなった。それを察してか、綾子がすかさず一言付け加えた。
「話はそう単純じゃないのよ。そりゃ、押し倒された事実が麻衣にとって衝撃じゃなかったとは言わないけど、問題の本質ははそこじゃないの」
 綾子は、「話が長くなるのはここからよ」と、言葉を続けた。






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