花嫁の涙 (10) 「眠れないのか」 「!」 突然かけられた声に麻衣は飛び上るほど驚いた。 「なんだ、ナルか・・・」 振り返った先には、見なれた上司の顔があった。その顔は、少しばかり不機嫌そうに見えた。 「たとえ護符をもっていようと、こんな時間にひとりでいるなんて感心できないな」 今回の調査は泊まり込みだったわけだが、男性陣はもうひとつの親族控室、女性陣はブライズルームで寝泊まりしていた。 麻衣がナルに声をかけられたのは、ブライズルーム前の廊下だった。ここの結婚式場は花嫁がゲストと鉢合わせすることがないよう、ブライズルーム専用の廊下があり、その廊下の端はそれぞれ披露宴会場と衣装室へとつながっている。男性陣が寝床としている親族控室および、ベースとしているもう一つの親族控室からは見えない場所であり、ナルが偶然通りがかる場所では決してなかった。麻衣が飛び上るほど驚いたのはそのためである。 「ちょっとは眠ったんだけど、急に目が冴えちゃった」 隣に眠る綾子を起こさないよう、そうっと抜け出してきたのだ。 「綾子、昨日は入院していたあたしについて徹夜してくれたでしょ、だから、眠りの邪魔はしたくなくて」 その後仮眠をとっていたとはいえ、相当疲れているはずだ。 「ナルはどうして?」 「カメラに映ってた」 言って、廊下に設置してあったカメラを指差した。 今回は結局、すべての出来事がチャペルで起っていたのだが、念のため他の場所のカメラも撤収せずに置いていた。 「あまりにもぼーっとしていたから、憑依されているのかと」 「ぼーっとしてて悪かったなっ」 「・・・眠れなくても眠る努力をしろ。ひとりで出歩くな。自分が昨日どんな目にあったのかもう忘れたのか」 「忘れないよ。迷惑掛けたってわかってる。でも、なんだかいろいろ考えたらもっと眠れなくなったんだもん」 麻衣は髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、ため息をついた。 ナルはくるりと踵を返した。ナルの言い分はもっともだった。麻衣は諦めて部屋に帰ろうとすると、背中から声がかかった。 「だったらせめてベースにいろ」 「・・・・・・」 ナルの言葉は麻衣にとって聞き間違いかと思うほど意外なものだった。だからナルの後ろ姿を見つめたまま、しばしの間なにも言えず立ち尽くしていた。 ナルは廊下の端でドアに手をかけてもう一度口を開いた。 「寝るのか。来るのか」 「い、行きますっ」 麻衣はあわてて彼を追いかけた。 追いかけたはいいが、ベースではナルとふたりきり、会話が弾むはずもなかった。 この時間のモニター監視は交代制で、つまりいまの時間はナルがひとりでベースにこもっているのである。モニターを見つめながら何やらファイルを見たりしている彼と、応接セットに腰をかけた麻衣の目線は交わることもない。 「お茶、入れようか」 うなずくだけの返事を確認し、麻衣は給仕に立ち上がる。 勢いでベースについてきたはいいが、これなら綾子の横でぼんやりしていた方が気が楽だったかもしれない、くらいのことを麻衣が思ったころだった。 「――話せば」 「へ?」 「なにか話せば、と言った。少し体力を使えば、眠たくなるのでは」 ナルはファイルに視線を落したままそう言った。麻衣はきょとんとし、お湯をこぼしそうになって慌てて手を止めた。 「えーと。・・・なにをしゃべれば」 この問いに対しては、沈黙が返ってきた。 そうですよねーとぶつぶつ言いつつも、お茶を入れた麻衣は、ナルにそれを運ぶ。ナルに近づけば自然とモニターが目に入る。なんの動きもないそれらをぼんやりと見つめ、ふとチャペルを映し続ける一台に目がとまった。 「今日は月が明るいね。ステンドグラスから月の光がさしてきれいー」 ソファに座ってもやることがないので、ひとまず麻衣もモニターを眺めることにした。自分用に淹れたお茶をことんとデスクの上に置き、手近にあった丸椅子を寄せる。 ナルが一瞥を寄こした。 「紅茶を飲むと、余計眠れなくなるのでは」 「やっぱりそうなのかな? でも、いままでに特に紅茶を飲んだから眠れなかったとか、紅茶を飲んだからうたたねを防げたとかないから、いいかなって」 「そう」 「そういえば小さい時、まだお母さんが元気な時、眠れないって言ったら牛乳を温めて出してくれたことあったなあ。牛乳、ここにはないもんなあ」 麻衣は丸椅子に腰かけ、紅茶のカップを手に取った。少し肌寒いベースの中で、ゆらゆら上がる湯気は見ているだけでも温まる。 「眠れないときに飲む温かい牛乳って、特別な感じがして好きだったな。ちょっとお砂糖を入れてくれたりして」 温まるからこれで眠れるわよ、とマグカップを差し出してくれた手が、ひどく懐かしい。 麻衣はふとナルを見たが、話を聞いているのか聞いていないのか、なんの反応もなかった。ナルにとって家族の話は少し複雑なのだろうと思う。麻衣も他人の前ではあまり家族の話はしなかった。大体において、反応に困ったという顔をされるからだ。 その点、いろいろな意味でナルは気兼ねなく、素直に話せる相手なのかもしれない。 「眠れない夜に、話し相手がいるっていいね」 話し相手という定義として、会話が成り立つという前提が必要だとするとナルがそれに当てはまるかは置いておいて。 「家族ってやっぱりいいよね」 「ぼくのことを家族に見立てているのか」 「え? は? いや、いやいや、そうじゃないけど!」 なんだか方向がおかしくなってきた。違うのだ、そうじゃない。 「眠れない夜に一緒にいてくれる人って、基本的には一緒に住んでる家族だよね? そういう意味。今日の場合は調査だもん、ちょっと違うでしょ。・・・おじいさん、あの女の子のこと、大事だったろうね。大切な娘の忘れ形見で、ずっと一緒に暮らしていた家族だもんね」 娘に先立たれた上に、孫にも先立たれてしまったおじいさんが、どんな思いだったのか。人の気持ちは想像をはるかに超えて複雑だ。だから理解することはとても難しいし、わかった気になるのはおこがましいことだとは思うけれど、家族を亡くした経験のある麻衣には、少しだけそれに寄り添える気がした。 「ねぇナル、少しここで寝てもいい?」 ナルは再び麻衣を見た。 「・・・どうぞ」 麻衣は瞳を閉じた。 赤い絨毯の上を、一歩ずつ、ゆっくりと進む。 近づく男が少なからず憎かった。自分の大切なものを奪う強奪者のような気さえした。 しかし、隣を歩く娘がいま、これほどまでに幸せそうな顔をしているのは、だれのおかげなのかもよくわかっていた。 白いドレスを身に纏い、娘はこれ以上なく美しく輝いている。 また一歩進む。 進むごとに、娘との別離が近づく。 ちらりと娘が顔を上げた。目が合う。 娘が目を細めた。その瞳がきらりと光った。一度唇を噛み、そしてその唇は微笑を形作った。組んでいる腕に、少しだけ力が入った。 違うのだ。 近づくのは別れではない。 近づいているのは、娘の永遠の幸せだ。 そしてまた一歩進む。 ついに娘の腕が離れた。 私の方を見ながら、娘の口が言葉を紡いだ。『愛してる』 私から離れた腕は、男のものになった。 娘の幸せを築いていくのは、私から、彼へと託されたのだ。 日の光にステンドグラスがきらめいていた。 娘が娘を産んだ。 白く柔らかくはかない、小さな赤子を産んだ。 小さな赤子は、ステンドグラスの前で洗礼を受けた。 抱き上げると折れてしまいそうに頼りないのに、その泣き声は生命の強さを感じさせるに十分だった。 娘が母になった。 家族が三人になり、幸せは風船のように膨れ上がった。 私はじいさんになった。 娘と、孫と、そしてその父親までもが自分にとって愛しい存在になった。 孫が歩けるようになった。 孫が話せるようになった。 孫の成長が、喜びだった。 娘夫婦が交通事故にあった。 ステンドグラスの前で望まない黒い衣装を身に纏った。身を引き裂く悲しみと、内臓をすべて握りつぶされるような苦しみが身体を支配したが、私にはやるべきことがあった。 私には孫が残された。 孫の幸せを築いていくバトンを、娘から渡されたのだから。 今度はステンドグラスの前で孫を失った。 娘だけに飽き足らず、神は私から孫をも奪うのか――― 麻衣は両手で顔を覆った。 情景と、感情とが流れ込む。どくん、どくんと自分の鼓動が頭に響いた。 麻衣がようやく手を退けると、目の前に広がるのは黒く焦げた、一見して何なのか判別のつかない光景だった。天井の一部は崩れ落ち、灰色の空が覗いている。麻衣がそこが教会だと分かったのは、辛うじて足元の床がモザイクだと気付いたからだった。 そして、そこには老人がいた。 ここが教会だと気付かなければ分からないほど変わり果てた焼け焦げて崩れたベンチの隙間を縫って、がれきに時折足を奪われながら、おぼつかない足で前へ進んでいく。 ようやく足を止めたのは、ステンドグラスの前だった。少し煤けてはいたが、その美しさは麻衣が知るものと変わりなかった。老人がその場に崩れ落ちる。慌てて麻衣は駆け寄ったが、麻衣には横たわるがれきでさえ障害ではなく、老人に触れることはできなかった。 「おねがいだ、もう私からなにも奪わないでくれ、せめて、せめてこのステンドグラスだけは」 しわがれた声だった。膝をついたまま、細く骨と皮だけの腕を持ち上げ、手のひらを天に向けて、老人が涙を流している。 「おじいさん」 触れられない麻衣が、届くかもわからない声をかけた。 「おじいさん、もういいんだよ・・・」 触れられなかったが、麻衣は触れられるならそうするつもりだったように、腕を広げて老人を囲った。ぬくもりすら伝えられないけれど、こうせずにはいられなかった。 「みんな、きっと光の向こうでおじいさんを待ってるよ。ずっとずっと、会いたかった人たちが待ってるんだよ。お孫さんも待ってる。おじいさんが苦しんでいて、お孫さんも苦しんでるいるよ・・・」 麻衣は一度ぎゅっと目をつぶった。引きずられてはいけない。大きく、温かく―― 「おじいさんの作ったステンドグラス、本当にすてきだね。きっと、ここでたくさんの人が幸せを誓ったんだよね。たくさんのひとが、このステンドグラスを見上げて、心を震わせたんだよね」 ふと、老人が動きを止めた。 「娘さんも、お孫さんもきっと、このステンドグラスが大好きだったんだよね」 老人は、ゆるゆると首を動かした。麻衣の方へ、少しずつ、ゆっくりと。 「だれも、おじいさんからステンドグラスを奪ったりしません」 ついに、麻衣と老人の目が合った。麻衣が少し腕に力を込めると、ごつごつとした感触と、ぬくもりが返ってきた。――老人を抱きしめることができたのだ。 「だれも、奪ったりしません―――」 光が射した、麻衣はそう思った。 光の方を見たくなったのは老人も同じようで、ふたりで同じ方向を見つめた。光に慣れた目は、その中にいる白い少女をとらえた。 「おじいさん、もう、行こう。みんなのところに、行こう」 少女は手を差し出した。老人はゆっくりとした動作で立ち上がり、少女へと歩み寄った。少女は老人の腕をとり――いつのまにかきれいなままの状態に戻った教会の赤い絨毯の上を歩きだした。 それは、白いドレスではなかったけれど、まぶしい光を纏った少女だった。麻衣には、少女がバージンロードを歩く花嫁に見えていた。 一歩、また一歩と、ゆっくりとふたりは前へ進む。ステンドグラスの方へと、より強い光の方へと――― ふたりがほとんどまぶしい光に包まれた時、少女が麻衣を振り返った。少女は泣いていた。 麻衣はそれが悲しみの涙ではないことを知っていた。少女の口が、ほほ笑みを形作っていたからだ。 ――ありがとうマイ、おじいさんをここまで連れてきてくれて、ありがとう・・・――― |